「偏見」と「無知」は違う 〜車椅子ユーザーをめぐる気づき〜SNSで見かけた、ある言葉
ある日、X(旧Twitter)で「車椅子ユーザーは立てない」という投稿があり、それに対して「それは偏見だ」という指摘がされているのを見かけました。
それを読んだとき、私はこう感じました。
「それって、“偏見”というより、“知らなかっただけ”じゃないかな?」
この感覚は、介護という仕事を通して、
たくさんの「気づき」を経験してきたからこそ、生まれたものかもしれません。
「偏見」と「無知」は同じではない
「車椅子を使っている=立てない」と考えている人がいたとします。
このとき、その人は「差別的な意図を持っている」わけではないかもしれません。
ただ、知らなかっただけ──つまり「無知」だった、ということもあり得ます。
でも、SNSなどでは「それは偏見だ!」と断じられてしまうことも少なくありません。
ここで私は、ふと立ち止まって考えました。「“偏見”と“無知”って、実は別物なのでは?」
介護の現場で知った“ちがい”
私は訪問介護の仕事をしています。
その中で、たくさんの利用者さんと出会い、
“当たり前”だと思っていたことが何度もくつがえされてきました。
たとえば、車椅子を使っている方の中には、
・必要に応じて立ち上がれる方
・短時間であれば、数歩だけ自力で歩ける方
・疲れやすさや転倒リスクから、歩けてもあえて車椅子を使っている方
など、実にさまざまなケースがあります。
でも、そうした「ちがい」や「背景」を知るまでは、
私自身も「車椅子=立てない・歩けないもの」だと思っていました。
つまり、私も無知だったのです。
知っている・知らないは、環境に左右される
今でこそ「人によって状態は違う」とわかっていますが、それは私が「介護という仕事の中で学べる環境」にいたから。
もしその経験がなければ、私もいまだに「知らない側」のままだったかもしれません。
そして、多くの人もまた、「知る機会がなかっただけ」かもしれないのです。
図で見る「無知と偏見のちがい」
以下のように整理してみると、それぞれの違いがわかりやすくなります。
┌───────────────┐
│ 知らない(=無知) │ ← スタート地点
└───────────────┘
│
└── 学ぶ・知ろうとする
↓
┌───────────────┐
│ 理解・共感 │ ← 成長のプロセス
└───────────────┘
│
└── 無視・放置する
↓
┌───────────────┐
│ 決めつけ・思い込み(偏見)│ ← 固定観念・判断
└───────────────┘
無知は悪ではありません。
だけど、そのままにしてしまえば、それは偏見に育ってしまうこともある。
気づいて、学ぶ姿勢があるかどうかが分かれ道になると感じます。
無知は恥ではない。学びの出発点
「知らない」ということは、決して恥ずかしいことでも、責められるべきことでもありません。
でも、それに気づいて学ぼうとするかどうかが、
人と人との間にある壁をやわらかくする鍵になるのだと思います。
私自身も、「知らなかった」ことを誰かに教えてもらって、少しずつ世界の見え方が変わってきたひとりなのですから。
偏見をつくらないために
SNSでは、「それは偏見だ」と正義感をもって指摘される場面もあります。
その勇気や行動も、もちろん大切です。
でも私は、同じくらい「この人は“知らなかっただけ”かもしれない」
「無知が偏見になる前に、伝えられることがあるかもしれない」
そんな“余白”や“対話のきっかけ”を大切にしたい。
そう、改めて思わされる良い投稿でした。
そしてこの記事が、誰かの視点を広げるきっかけになったら嬉しいです。
まとめ~この記事で伝えたかったこと
- 無知と偏見は違う。無知は学びの出発点。
- 車椅子ユーザーにも、立てる・歩ける人がいる(程度の差がある)。
- 知らないことを責めるより、気づきに変えていくことが大切。
- 偏見をなくすには、「知らなかった」を許せる社会が必要。
最後までお読みいただきありがとうございました。
